遠くの両親(介護保険施設)、わたしの暮らし 

脳梗塞で父が倒れ介護保険施設の生活をスタート。遠方で暮らす両親とわたしの日々


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日本の中国料理界を牽引してきた重鎮・脇屋友詞(66歳)のアナザースカイは北海道

 

日本の中国料理界を牽引してきた重鎮・脇屋友詞氏(66歳)が、

テレビ番組「アナザースカイ」で北海道を訪れていました。

14歳まで北海道の札幌にいたそうです。

 

私はよく存じ上げなくて、経歴を見るとすごいお方でした。

 

脇屋友詞 1958年北海道札幌市生まれ。

'73年15歳で料理の道に入り、赤坂「山王飯店」、「東京ヒルトンホテル」、「キャピトル東急ホテル」等での修行を経て、

'85年27歳で都内ホテルの料理長、'92年同ホテル総料理長になる。

'96年、「トゥーランドット游仙境」代表取締役総料理長に就任、

'97年、パン パシフィック ホテル横浜(現横浜ベイホテル東急)中国料理総料理長に就任。

'98年、同ホテルにて皇太子ご夫妻のご夕食調理総責任者を拝命

'01年東京・赤坂に「Wakiya一笑美茶樓(いちえみちゃろう)」をオープン。

'07年7月、ニューヨークのグラマシーパークホテル内にWakiya Gramercy Park Hotelをオープン、海外進出を果たす。('08年12月移転のためクローズ)

'08年東京・池田山に「Wakiya迎賓茶樓(げいひんちゃろう)」をオープン、

'11年東京・赤坂に移転し「トゥーランドット臥龍居(がりゅうきょ)」と共に新たにオープンした。

 

 メディアでは、NHKきょうの料理」をはじめとするテレビ番組や雑誌などを通して中国料理や中国茶の楽しさを広く伝えている。

また、ワインにも造詣が深く、'05年には中国料理を通じワインの普及に貢献したとして日本ソムリエ協会認定名誉ソムリエに就任。

'08年にはボルドー地方よりコマンドールの騎士号を任命される。

'09年にはシャンパーニュ騎士団のシュバリエ(騎士)の称号を受賞。

名誉きき酒師酒匠を受賞。

などなど

参照リンク シェフ|脇屋友詞の中国料理 Wakiya一笑美茶樓

 

 

テレビ番組「アナザースカイ」で美味しそうに食事を頂く姿が気持ちの良い人という印象でしたが、番組の半ばで料理人になった経緯を語り出されました。

 

中学2年生の夏休みで家族で東京に行った時に、

赤坂の山王飯店というところで初めて中華料理を食べたんです。

そこでそこの経営者に、

ウチの息子を中学を卒業して料理人にしたいけど、預かってくれって事をご飯を食べている最中に話してたんです。

まさかそんな風になるとは思ってないじゃないですか、そしたら東京にもう引っ越します、転校しました、中学3年生になると高校の進路の話をするわけです。

ウチの子供は高校行かない、もう仕事が決まってるんでって。

もう「え!?」って感じですよね。意味わかんない。

口減しだなっていうね。

ひどい親だなって僕は思いましたね。正直にね。

 

参照 Google Pixel presents ANOTHER SKY 6月1日(土)放送分 ゲスト:脇屋友詞/北海道|報道/ドキュメンタリー|見逃し無料配信はTVer!題

 

時代が時代ですから、当時、中学卒業で料理人として働きに行く人はまあまあいたと思います。

私の両親は脇屋友詞氏よりひとまわりほど年上ですが、両親の同級生には中学卒業で働きに出る人のほうが多かったと聞いています。

仕事によっては、はやく職についたほうが、そのぶん先輩になれるので、丁稚奉公的に勤めることが良しとされている風潮もあったと記憶します。

料理人は特にそうでした。

 

脇屋友詞氏はチャーハンを作るのが上手だったので、中華料理で働くのが向いてるだろうと、父親は考えてのことだったと思うし、わざわざ東京まで連れて行ったことなどから、父親も苦悩しつつ最善の道を用意しようとしたのではないかなと想像しました。

今では感謝されているようですが、脇屋友詞氏は口減しされたという思いが強かったと思うので、長年つらかったと思います。

 

最後に、ハタハタを料理しておふくろの味を再現されていました。

「今思うと、生きていたらこれをたべさせたら、さぞ喜ぶでしょうね」

 

現在、北海道庁で食のサポートのお仕事を引き受けられているそうです。

まるで鮭みたいに故郷に戻られて貢献してらっしゃるんだな。

今なら見逃し配信で見られるので、興味のある方はぜひ。